日蓮宗では、お坊さんになるために、誰もが入らなくてはならない修行の場があります。身延山に開設される信行道場です。

 五月から六月末までの三十五日間、私は信行道場で修行僧の指導に当たってきました。ここを修了すれば日蓮宗の僧侶として巣立っていくのです。あれも伝えたい、これも身につけて欲しいとの思いは高まるばかりです。ひと月余りという期間は余りにも短いと感じました。

 それにつけても思うのはこの前勤めてから七年間という歳月が経過しているということです。入場から十日経った頃奥之院思親閣への登詣があります。ロープウェイに乗ればわずか七分の山上ですが、太鼓を打ちお題目を唱えながら、足並みそろえて歩いて登るのです。先頭は私です。初めは声高らかに足取りも力強く進みますが、半分も行かないうちに道は険しくなり、行列の足は重く息も絶え絶えになります。こんな時こそ先頭で道場生を元気づけるのが、指導者たる私の見せ所なのですが、残念ながらこちらも息が上がってそれどころではありません。七年前とは大違いです。

 そんな時です。後ろから聞こえる道場生の声が段々大きくなってくるではありませんか。あとで聞いたことですが、道場生たちもこれ以上はだめだと思い、只ただお題目の力に縋ろうと考えたそうです。すると、不思議なことに声が大きく出るようになり、足が軽くなってきたというのです。

 道場生たちの大きな声に押されるように、私も山上へ無事到着することができました。
「妙とは蘇生の義なり」と宗祖は説かれています。力尽きようとする私たちが共にお題目を唱えることにより、助け合い支え合う力を戴くことができたのです。

 教えることは実は教わることです。修行とは特別な場での一時的なものではありません。日々の生活そのものが実は修行であり、その中で互いに教え教えられることが修行だと改めて実感した三十五日間でした。