前回説明した「理の釈尊」は、法の人格化ですから姿形は見えません。これを「法身仏」と呼びます。

『寿量品』では目に見えない法身仏の釈尊が目に映る人間の釈尊の姿となって現れたと信じて「事の釈尊」のことを「応身仏」と呼びます。

法身・応身というとともすると歴史上の釈尊と真理の釈尊とに二分化され、ランク付けされたような印象を受けてしまいますが、こうした二分化を一つにまとめるのも、この「良医喩」の役目です。

前回ご説明した通り、薬を残して旅に出て死んだと伝えられた釈尊が事の釈尊、そして子供が全快してから帰国する釈尊が理の釈尊です。

 「亡くなったと報じられたが実は亡くなったのではなかった」という言葉のあやに、二人の釈尊の一人化が感じ取れるのです。