「無上甚深、微妙の法は百千万劫にも遭いたてまつること難し…」

私たちが朝夕の「おつとめ」をするとき、まずお唱えする『開経偈』の冒頭である。

私が身延山短大に入学して、本山で修行を始めて三年目を迎えたある日のことである。知り合いの老僧に法事の手伝いを依頼され、その法事に役僧として出仕した。

無難に法事を済ませ控室も戻ったとき、老僧に「もう一度、開経偈を唱えてみて」と言われた。私が開経偈を唱え終えると、老僧が「いいか、無上甚深ミミョウの法はだぞ」「ムミョウの法ではないぞ」と注意を促された。

「いつもの慣れから唱えやすいムミョウになっているぞ。間違えたではすまないことだ。微妙とは、なんともいえない味わいや美しさがあって趣深いことを意味する。つまり、無上甚深微妙の法とは、法華経このことで、甚(はなは)だ深い教えで、これ以上奥深くてすばらしく、すべてにいきわたった教えは他にはない教えであると…。」

「ムミョウ」を漢字に直すと無明。私たちに不幸をもたらし、苦痛や困惑、悲しみをもたらす根源が無明なのだと。微妙が最善だとすれば無明は最悪。お経もしかり、お唱えするときはしっかりと意味をわきまえ、上の空で唱えず、間違えないように一言一句おろそかにせず、心を集中して読誦するように」と諭された。

今では、良い思い出だ。学生時代に身延山で修行して、一人前になったと思っていた時の出来事だった。老僧は、日蓮宗僧侶になるための修行機関である信行道場で主任先生を勤めた方で、読経の心構えや作法を懇切に教えていただいた御恩に今も感謝している。

 私たちがはかり知れないほどの長いあいだ生きていても、出会うことがむずかしいとされる法華経。今こうして、法華経を読誦できるという有り難さは、微妙ミミョウの境地であると言えよう。けしてムミョウ、ビミョウにならないよう心掛けたい。