6月の法話 今日もお茶湯/服部憲厚
お寺の朝はたいてい「お茶湯」から始まります。
読み方は「おちゃゆ」ではなく「おちゃとう」と発音します。これは自身が飲むお茶を淹れることではありません。神仏に御供するお茶のことを言うのです。
以前、若いお檀家の方に「毎日のお茶湯も大事な修行ですよ」
と話したところ「お茶湯ってなんですか?」
と逆に質問され、意外に知られていない言葉であることに驚いたことがありました。
たかが一杯の御茶供養と思われるでしょう。でもこれが想像以上にとても大事な修行なのです。
朝起きてまず湯を沸かしお茶を淹れて神仏にお供えする。そして夕方お下げする。ただそれだけの事なのですが重要な事は毎日行うということです。
人間ですから面倒くさく思う日もあるでしょう。忙しくてそれどころじゃない日もあるかもしれません。
小僧時代の私も、暑い日も寒い日も毎日しなければならない「お茶湯」に飽き飽きし、半分やっつけ仕事のように罰当たりなお給仕をしたこともありました。
ですがある冬の朝、自分が思い違いをしていたことに気づかされたのです。
その日はいつもより寒さ厳しく「お茶湯」の温かく香ばしい湯気が勢いよく立ち上がりました。朝日に照らされてキラキラと輝いたかと思うと、その湯気が目の前の日蓮聖人のお像の口のあたりに吸い込まれるように消えた光景を目の当りにしたのです。
たまたまだったのかもしれません。それでも私には「このお祖師さまは生きておられる」
と実感した瞬間でした。
日蓮宗の修行は「給仕第一」と教わります。
ご本尊さま、仏像や絵像、墓石や位牌であったとしても、そこに生きた魂が宿っている。だからこそ、毎日「ご給仕」させていただくのです。
信心を育み、神仏から直接気づきを頂けるご修行。それが「お茶湯」の魅力でもあります。

