8月の法話 また逢いましょう/鈴木春暁

 水子供養にお越しになったご夫婦がおられました。

 新しい命を授かった喜びも束の間、その子の産声を聞くことなく、お別れを迎えられました。我が子を抱き、成長を楽しみにされていたことでしょう。亡き我が子もまた、両親の腕の中に包まれ、可愛がってもらいたかったはずです。そうした深い悲しみの中、ご供養を続けておられました。

 ある日、そのお母さんが話してくださいました。
「お寺のお墓のそばに、小さなお地蔵さまがいくつかあることに初めて気づきました。子を亡くした悲しみは、私たちだけではないんですよね。」

 悲しみの只中では周りを見渡す余裕もありません。それでも手を合わせる日々が、我が子との別れを受け入れ、一歩を踏み出す力となったのでしょう。

 お釈迦さまの弟子キサーゴータミーもまた、幼い我が子を亡くしました。我が子の死を受け入れられず、お釈迦さまを訪ねると、「死人を一人も出したことのない家から一握りの芥子の実をもらってきなさい」
と諭されます。

 しかし、そのような家はありませんでした。そこで彼女は、悲しみは自分だけのものではなく、誰もが別れを経験しながら生きていることを悟ったのです。

 それでも、亡き我が子と再会できると知れば、会いに行きたいと思うのが親心なのでしょう。

 鎌倉時代にも心に深い傷を負った母親がいました。 日蓮大聖人は、その母に
「南無妙法蓮華経とお唱えし、一緒に生まれたいと願いなさい。母も子も同じ妙法蓮華経の種を心に宿していれば、同じ妙法蓮華経の国に生まれます」
とお示し下さいました。

 今は涙の日々であってもお題目を唱え、ご供養を重ねる一歩一歩が、亡き我が子との再会へとつながります。仏さまは、悲しみをなくすのではなく、その悲しみとともに歩む道を示してくださいました。その願いを胸に、今日も手を合わせてまいりましょう。