関西身延真如寺とは

大阪で唯一、日蓮聖人の御真骨を奉安している霊場です。
毎日ご祈祷やご回向(ご先祖の供養)を受け付けています。
滝行で心身を清め、心の鍛錬をすることもできます。

〒563-0121 大阪府豊能郡能勢町地黄606
TEL:072-737-0135 FAX:072-737-0448

真如寺の大屋根

ご祈祷

各お堂にて、家内安全、身体健全、社運隆昌、厄除け、合格祈願、等々ご祈願をいたします。

ご回向

ご先祖様や水子のご供養を承っております。

お滝行

年中枯れることのない当山の滝での修行のご指導をいたします。

お知らせと更新情報

  • 1月の法話 現世安穏を祈る/日 慧

    新春を迎えてご挨拶申し上げます。本年も何卒よろしくお願い申しあげます。 本年は庚子(かのえね)の年です。庚は万物の実れる様子を表す字です。秋になり見渡す限り黄金色に稲の実る田んぼの様子を思い浮かべることができます。また子は文字通り人の子を表す字で、未来に向けて受け継ぐもの、あるいは果実の実を意味します。 近年、顕著になってきたのが、今までになかった大きな自然災害です。豪雨や豪雪等々。いずれも地球温暖化の様相が、私たちの目に見えるようになってきたものと言えます。当山では、妙見山奥之院の井戸水ですが、一昨年の地震から出なくなってしまいました。ところが去年の夏になって、豪雨が続くと出るようになり、そののち秋になって雨が降らなくなるとまた渇水してしまいました。主に掃除と手洗いに使っていた井戸水ですが、別の水脈を探して新たな井戸を掘るか、昔ながらの雨水を溜めて使うか。名案は中々浮かびません。ただいずれにせよ、私たちは自然の恵みを受けて生活することができるということを、身近に体験しているということがよくわかる出来事です。 この自然が温暖化により荒れていくのです。まだまだ災害が起こることが予測されているのです。何とかして食い止めなくてはならないと誰しも同じ思いを持っているはずです。にもかかわらず、実現に向けて進もうとは中々ならないのはもどかしいばかりです。そればかりか、災害に立ち向かうどころか、人間同士が互いに殺し合う、戦争が未だ続いているのです。さらに国を挙げて核兵器を保持し続けているのが現状ではありませんか。 日蓮聖人は「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば、吹く風枝をならさず雨土くれを砕かず」と説示されています。庚子の本年、未来に向けて豊かな自然と平和な社会が受け継がれ、黄金色に輝くばかりの美しい世界が実現されることを切に願い祈るものです。
  • 1月の法話 命懸けの信仰/栗原 啓文

    学生の頃宗門史の講義で衝撃を受けたことがある。それは中世の人の法華信仰についての講義だった。当時は本末制度と呼ばれる制度があり、地方の寺院の檀信徒の管理は、全てその寺院の属する本山の指示の下で行われていた。ある本山から地方の末寺にあてられたこんな指令があった。 「もし他宗の家から嫁をもらった場合、その嫁をもらい受けた夫は、必ず法華信仰に改宗させること。もしその嫁が二年以内に法華信仰に改宗しなかったなら、夫・嫁の両名ともその家から勘当させよ」 なんという衝撃的な資料だろう。法華宗の家が他宗から嫁をもらった場合、その主人は責任を持って嫁いできた者を法華宗に改宗させなければならなかったのだ。それに加えて、もし二年以内にその嫁を改宗させることができなかった場合は、二人共その家から勘当されてしまうのである。現代から考えればあまりにも非現実的だが、当時はこれが当たりだったのである。 また、こんな話もある。戦国時代最大の絵画集団の狩野家には、絵画制作に携わる絵師、その身の回りの世話をする下人に致るまで全員が法華信者でなければならないという掟が存在した。後に狩野派を脅かすまでになった長谷川派の祖、長谷川等伯も、見習いの頃は狩野派の絵師として腕を磨いていたのである。 こうして昔の人々の法華信仰を概観してみると、まさしく命懸けであったということがわかる。なにせどの宗教を信仰する家庭に生まれたかによって、その人の一生の大半が決まってしまうのだから。当時の芸術家は、作品を通して自身の信仰の表現していたのではないだろうか。現代の日本は、日本国憲法第二十条によって信教の自由が保証されている。 しかし、昔の人々のように命懸けとはいかなくてもせめて自分の拠り所としての信仰はもっていなければいけないと思う。法華経こそがその拠り所となるように広めていくことが我々日蓮宗教師の使命である。
  • 良医病子喩(四)

    第二に、この比喩には二人の釈尊が登場します。それは、良薬を病児たちに残したまま旅に出て、その旅先から「死んだ」と報ずる良医の父の釈尊と、子ども達が全快したのを知って帰国する良医の父の釈尊です。後者の釈尊は前者とは実は別次元の釈尊である、ということです。 つまりこの喩えは、肉体を持ち歴史上に実在し、有限の生命を持った人間・釈尊と、肉体を持たずに、歴史を超越した永遠の真理(法)の象徴としての釈尊がいることを示唆しているのです。 言い換えますと、生身の釈尊への信仰から、真理を身とする高次元の釈尊に対する信仰へと転身せよ、という教えがこの喩えには語られているのです。大乗仏教では歴史上の釈尊を「事の釈尊」、その事の釈尊が悟られた法を「理の釈尊」と呼びます。
  • 1月のお便り

    お正月、食べ過ぎ飲み過ぎ肥りすぎが心配な方もいるのでは。 ところで野生動物は肥満が見られません。肥りすぎのペットと違い彼らはみな精悍な姿をしています。獲物を捕らえたライオンたちは獲物にむしゃぶりつきますが、腹八分目でそれ以上は口にしないのだそうです。 ライオンの後には残り物を待っている動物たちがいます。こうして自然界の食物連鎖が保たれており、これを崩すと結局は我が身に災いが返ってくることを本能的に知っているのです。 必要なものを必要なだけいただく。私たちも見習うべきでは。 KJ