真如寺縁起
開山を寂照院日乾上人、開基を能勢頼次公とする当山は、無漏山と号し、関西身延と称せられ、古くより近畿の霊場として知られている。能勢頼次公は、本能寺の変で明智方に加担したため豊臣家に領地を没収され、追われることとなったが、のちに徳川家康公に小姓として召され、関ヶ原戦役ののちに旧領を復することができた。
ここに、法華経の霊験を知り、また代々に法華経信仰をつぐ頼次公は、当時京都本満寺貫首であった寂照院日乾上人を招き、山や屋敷などあわせて東西五町、南北六町を永代寄進した。時に慶長5年(1600年)秋のことで、この年をもって当山開山の年とする。
日乾上人は、こののち日蓮宗総本山である甲州身延山久遠寺第二十一世となられ、退隠後再び能勢へ戻り、ここに隠居所覚樹庵を創立し、能勢郡の法華道場として布教活動の拠点とされた。
頼次公はまた、覚樹庵とともに大恩人である徳川家康公の菩提のためと、さらに能勢氏の祈願所として覚樹庵境内に真如寺を建立し、以後日乾上人が法務を執った。
このとき、日乾上人は能勢氏の家鎮として古くから祀られていた「鎮宅霊符神」を法華経のご守護神「妙見大菩薩」とし、さらに武運長久を願って武具甲冑を身 につけ剣を手にした妙見大菩薩のご尊像を日乾上人自ら彫刻して授与し、これを能勢の領地が一望できる為楽山の山頂に祀った。これが現在の能勢妙見山の始まりである。
また、日乾上人は身延山に請い、宗祖御真骨の一部を手に入れ、当山に安置した。以来当山は、宗祖棲神の霊場ということだけでなく、風光も身延を彷彿とさせるものであったために、関西身延と称せられるようになった。
また、当山の中興である第八世寂明院日侃上人の代には、徳川三代将軍家光公により、当山をして無本寺跡(本山格の一箇本寺)に昇格された。さらに妙見山興隆を図った第十五世慈妙院日通上人代には村雲瑞龍寺宮の帰依あって緋御紋章の御袈裟および網代の乗輿が贈られ、能勢妙見山は日蓮宗妙見信仰の中心となった。こののち昭和16年(1941年)宗教法人法の改正によって能勢妙見山は、真如寺所属とされ、真如寺付嘱境外仏堂能勢妙見山とされ現在に至っている。