9月の法話 予定は未定/新實信導
「予定は未定であり決定ではない。暫し変更がある」
高校時代、剣道部顧問Y先生の口癖であった。
剣道部に属していた私は一年三六五日、練習か遠征試合に明け暮れていた。
そのY先生は、担任を持つわけでもなく保健担当の先生であった。
先生は大学時代、東京教育大学(現筑波大)のハンドボール部で活躍し国体出場選手であったそうだ。
なぜY先生が剣道部の顧問なのかという疑問があった。
その昔、剣道部は荒れており、他校生徒との喧嘩が絶えないような部活動であった。
それを見かねたY先生が顧問となり指導にあたったという。
剣道部には学校で問題を起こしY先生あづかりとされた生徒がいて、Y先生がまさに最後の砦であった。
先生のおかげで無事卒業できた生徒も多かった。
剣道部の練習内容は準備体操と基礎トレーニングが約一時間、防具を着けて打ち込み三〇分、練習試合三〇分の計二時間が基本的な練習であった。
打ち込みのあと、Y先生が来るといつも変わった指導が始まる。
校外に出て河川敷をランニング。足下が砂で滑り思うように走れない。
まして胴着に袴を着け、片手に竹刀を持ちながら走る。端から見れば歩いているようにしかみえない。
サプライズトレーニングの前には、きまって冒頭の「予定は未定であり…」と言われたものであった。
練習とは、毎日同じことの繰り返しである。ややもすると練習は苦しみしか感じなくなる。
そこで思うのだが、お釈迦さまの教えは私たちが苦しみをどう乗り越えるかと考えるところに成り立っている。
生きる上で繰り返し味わう様々な苦しみを生苦というが、この生苦を知りその上で苦をどう変えるかを考えながら体験し、行動することで、生苦が苦ではなくなるのである。
今思えば、練習という苦しみを変えるために、Y先生はサプライズトレーニングをあえておこなっていたのかもしれない。