前回説明した「理の釈尊」は、法の人格化ですから姿形は見えません。これを「法身仏」と呼びます。

『寿量品』では目に見えない法身仏の釈尊が目に映る人間の釈尊の姿となって現れたと信じて「事の釈尊」のことを「応身仏」と呼びます。

法身・応身というとともすると歴史上の釈尊と真理の釈尊とに二分化され、ランク付けされたような印象を受けてしまいますが、こうした二分化を一つにまとめるのも、この「良

洗濯機を買いに出掛けた。様々な機種が店頭に並んでいる。全自動は当たり前で、洗濯物を放り込んだらあとは機械任せ。楽になったものだが、20年前インドへ行った時の事を思い出した。

川辺で石に洗濯物をたたきつけて洗っていた。驚いたことに、洗ったものを土の上に直置きで乾している。アルカリ性の土壌では汚れがつかないという。

さらに驚いたことには、洗い物を手に持って広げ風に当てて

新春を迎えてご挨拶申し上げます。本年も何卒よろしくお願い申しあげます。

本年は庚子(かのえね)の年です。庚は万物の実れる様子を表す字です。秋になり見渡す限り黄金色に稲の実る田んぼの様子を思い浮かべることができます。

学生の頃宗門史の講義で衝撃を受けたことがある。それは中世の人の法華信仰についての講義だった。当時は本末制度と呼ばれる制度があり、地方の寺院の檀信徒の管理は、全てその寺院の属する本山の指示の下で行われていた。ある本山から地方の末寺にあてられたこんな指令があった。

「もし他宗の家から嫁をもらった場合、その嫁をもらい受けた夫は、必ず法華信仰に改宗させること。もしその嫁が二年以内に法華信仰