3月の法話 人の間に生きる/日慧

 大阪のオバチャンはいつも飴を持っている。

 そんな話をテレビで聞いた。「本当かな?」「何で飴なんか持っているんだろう?」

 家では誰もそんな習慣がないので、大笑いしたものである。でも、その後これもたしなみのうちなのだと納得することになった。

 コンサートを聴きに行った時のことだ。空気が乾燥していることもあって、咽がいがらっぽくなり、とうとう我慢できずに咳き込み始めた。ハンカチを口に当てて、何とか音が漏れないように努力するのだが、中途半端に咳をするものだから、それが引き金になって更に強い咳が出る。満場が静まりかえったホールでの咳は、聴衆にとっても演奏者にとっても迷惑この上ない。冷や汗が出る思いで、これは外へ出るしかないかと考えた時、後ろの席から飴を乗せた手が突き出された。思わずつまみとって口へ入れたら、嘘のように楽になった。黙って後ろへ頭を下げた。

 飴をもらった時、二つの意味で私はうれしかった。一つは咳がつらいことでしょうという思いやり。そして今ひとつは、席を立とうとした私の心に対する思いやりである。「あなたが大変な思いでいることは私にもよく解る。あなたのせいではなく、咳がいけないだけですよ。」そんな思いが感じられ、申し訳なさが随分楽になったのである。

 人は一人きりで生きているのではない。人と人との間に居場所があり、人とともに生きているのである。だから「人間」という。相身互いというが、助け合い励まし合ってこそ、人間として生きることができるのである。これが「智慧」というものであり、仏が説く教えも実はここに根本がある。それを忘れては、人間とは言えないし、仏への道も閉ざされてしまう。

 助け合い、他のために手を差し伸べるという行為は人の本性ともいうべきものだが、それを忘れつつあるのが現代社会だ。このすばらしい宝物は、何としても伝え残さねばならない。