8月の法話 鬼門/服部憲厚


 日本では昔から家や城郭の艮(東北)の方角は百鬼の出入りする門戸「鬼門」として忌み嫌われてきた。転じて「よくないことが起こりやすい場所や時間」のことをさす。

 私にとって、夏はまさに鬼門である。高校生の夏、柔道の練習中相手の投げ技を肩で受けて鎖骨を骨折した。二十代半ばでは、肺気胸を発病し入院。これも夏の盛りのことで、人生で2度の入院手術の経験はすべて夏と決まっている。以来どうも夏がくるとビクビクしてしまい些細な事を考えだすと眠れなくなったり、夏風邪をひいたり、注意力が散漫になったりと上げれば枚挙に暇がない。夏になると鬼が私のところにやって来るのか…いっけん冷静におもわれるが、実は私はビビリなのである。

 これは今に始まった事ではない。昔から日本人は、不吉なことは悪鬼の仕業と恐れた。都の造営や築城の際、艮の方角には大規模な寺社が置かれ国家プロジェクトとしての鬼門封じが行われた。よくない事(鬼)は外からやってきて災難を起こす。これが、日本人の遺伝子に浸透する鬼門の思想の正体である。

 一方、私たちにはお釈迦さまの御教え「仏門」も遺伝子に浸透している。それは「鬼門」とは逆の門といえる。よくない事(鬼)は内(自分の考えや行動)から起こって災難となると説かれているからだ。

 仏門に照らし自分の行動を見つめ直せば鬼の正体が浮き彫りとなる。練習不足が骨折の原因。怠惰な生活が病気の引き金、余計な事は考えず、腹を出して寝なければぐっすり眠れて風邪をひくこともない。何でもかんでも鬼のせいにしてはならないのだ。

 しかし、人生には避けようのない鬼が必ず現れる。ゆえに法華経は、それら災難や苦労を避けず、真正面から向き合い、乗り越えてゆく姿勢を説く。鬼門を恐れることはない。

 法華経に照らせば鬼門は仏門となり、自身が生まれ変わるための関門、蘇生の門となる。