4月の法話 日常の中に /箕浦 渓介

仏教の「修行」と聞いて多くの人の頭に真っ先に思い浮かぶのは「掃除」ではないだろうか。

例えば時代劇やアニメ等で「お寺の小僧さん」といえば大抵、床の雑巾がけをしていたり、ゴミ一つ落ちていない境内なのに箒を意味もなく左右に振っていたりと、何かにつけ「掃除をしている」シーンも多く、世間一般では「お寺の修行といえば掃除」という方程式が確立しているように思う。一見ステレオタイプとも言うべき方程式だが、実際の所かなり的を得たものだと思う。掃除ほど仏道修行の本質がよく見えるものはないではないか。

 

私は実家で「掃除した後を見ればその人が仕事が出来る人どうか解る」と教えられてきた。なぜなら掃除ほど、やる前とやった後でその「結果」が一目瞭然なものはないからだ。掃除とはとてもシンプルな作業でその結果が「掃除する前より綺麗になったか否か」の二択しかない。ただ何となく雑巾がけをしたから、何となく物を捨てたから掃除をしたという事にはならない。大切なのは「綺麗になった」という結果と、その為にはどうすれば良いか自分で考えたという事が重要なのだ。逆を言えば、その結果さえ得られればそこに至るまでの道は必ずしも一つではない。それは悟りを得る道筋が一つではないという事にも通じる。

よく掃除が出来ないという人で「掃除しているのに部屋が片付かない」という人がいるが、部屋が片付いていないという結果で終わっている時点でその人は本当に考えて掃除をしていない。ただ何となく「掃除の為の手段」を何個か行って掃除をした気になっているだけなのだ。そしてそれではきっと意味がない。

仏教における修行とは、ただ課せられた課題を黙々と行う事に意味があるのではない。課せられた課題の中で自分なりにその意味する所を考え真理を探究する事にこそ意味がある。掃除はその基礎的な力を磨くのに最も効果的なツールではないだろうか。