10月の法話 こころざし/新実信導


 遺志・意志・寸志・大志・闘志・同志など「志」のつく熟語は多い。自他を問わず、心の内面を表すには「志」の文字の前に状態を表す文字をつけることで心の動きが表現できて都合が良い。しかし「志」の文字だけとなると勝手が違う。よく使われるのが、黄白または黒白の結び切り水引の上に書かれ、イメージ的には故人を偲ぶような雰囲気に思えてならない。

 この志という文字は士と心から成り立っている。白川静『常用字解』によると字の上部の「士」はもと之(し)の形である。之は行くの意味があるから、心がある方向をめざして行くことを志といい、「こころざす(こころがある方に向かう。心に思い立つ)、こころざし」の意味となる。古くは心に在る。心にしるすの意味であった、とある。

 つまり、心が何かに向かって行くことであり、目標に向かって心を動かす。あるいは目的をたてて、それを達成しようとする心が志であるといえよう。

 ところで、日蓮大聖人は「志」の文字をよく使われている。なかでも『事理供養御書』には「ただし仏になり候事は、凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり。志ざしと申すはなに事ぞと、委細にかんがへて候へば、観心の法門なり。観心の法門と申すはなに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわをはぐにて候ぞ。」とあり、私たちのようなものが仏になるには、志という言葉をわきまえることによって仏になれる。それでは志とは何か?よく考えてみると、観心の法門のことである。さらに観心の法門とはどういうことかというと、たとえば自分の身に付けているたった一枚の着物を法華経に差しあげることであり、自分の身の皮を剥いで供養することであると教示されている。身も心も法華経に捧げること、すなわち法華経を信じ、実践修行することにより、仏の志が頂戴できる。私たちは仏の御心に寸志ではあるがしるすことができるのではないか。