10月の法話 子に学ぶ仏の慈悲/相川大輔


 先日、生後八か月目にして初めて次男坊が三十九度以上の熱を出した。ハアハアと息はあがり、かなり苦しそうな様子だった。できることなら代わってあげたいと思いながらも、すでに病院で処方された薬を飲ませていたので、あとはただただ見守るしかなかった。午前四時頃ハッと目を覚ますと、寝返りをした次男坊が「はーい!」と私の顔を見て一言。おでこに手をやると、熱は下がっており一安心した。長男が二歳の時に肺炎を起こしたことがあるだけに、今回は非常に胸が痛む思いをした。

 私は父親となって五年になるが、子どもたちから日々学ぶことは多い。その中でも、“慈悲”の気持ちを学ばせてもらったことが何より一番ありがたい。たとえどのような時も子どもたちの味方でいたいと思うし時にはあえて厳しく躾けることもある。子どもが嬉しそうなときは私も嬉しく、また今回のように病気やけがをした時は自分が身代わりとなってでも、子どもの苦しみを取り除いてあげたいと感じる。

 言うまでもなく、釈尊の教えの根本にはこの慈悲の心がある。法華経の中にも
「我もまたこれ世の父。もろもろの苦患を救うものなり」と示されている。つまり、私たち親が自分の子どもらに向けている慈悲の心を、世の一切の生きとし生けるものへ向けているのが教主釈尊なのだ。もちろんその大慈悲は私たちにも向けられているのである。

 日蓮聖人は御遺文『法華取要抄』で次のようにおっしゃっている。

「此の土の我等衆生は五百塵点劫よりこのかた、教主釈尊の愛子なり」

実はずっとずっと昔から、私たちは釈尊の大慈悲の中に生きてきた仏様の子どもだというのである。しかし私たちはそのことをいつしか忘れてしまい、自分勝手に生きるようになってしまったのだ。「南無妙法蓮華経」のお題目は、私たちがその大慈悲に再度気付くようにと、日蓮聖人から私たちに向けられた慈悲そのものなのである。