10月の法話 松葉(まつのは)/日慧

 松葉。

 文字通り松の木の葉のことだが、その針のように細い葉は、他の木の葉と違って全く広がりを持たない。朴(ほお)や柏の葉は、柏餅などのように物を包むことができる。しかし松葉では何も包めない。

 ここから、松葉で包むほどのわずかな物ですという意味を込めて、昔の人は松葉のしを書いた。今でものし紙にまつばが印刷されているものがある。あれがそうだ。またのし袋やお菓子の箱に掛けるのし紙などに「松葉(まつのは)」と書いて、寸志の意を表す。

 粗末な物だから粗品と書き、わずかな物だから寸志あるいは松葉と書くわけではない。自慢するほどの物でもないし、山のようにたくさんあるというわけでもないという、謙遜の心から出た言葉だ。しかし最近では意味が分からない人もあることだろう。

 今では謙遜するということが美徳とはされず、自分のことはできる限りアピールしないと認められないという風潮が見られる。これはこれで必要な場合もあろう。

 しかし「ほんのおひとつですが…」などと言って心のこもった品を差し上げる、そんな古くからの習慣は捨てがたいものである。受け取る側も、その何気ない一言の中に相手の心配りや思いやりを感じ取る。目に見えない水面下で万感の思いを伝え合うのである。

 このような真に奥床しくも情のこもった人間関係が次第に表層的でドライなものに取って代わられようとしているのは寂しい。

 人は独りで生きることはできない。だから他とともに在るという思い、他への心配りが大切になるのである。

 これは仏の心に通じるものだ。仏教では、人ばかりではなく周囲のすべてによって、私たちは生かされていると説く。人に対するだけでなく、周囲のすべてに対する心配りが逆に自らを生かすのだという。

 自然への思いやり、花鳥風月との語らいといったものがなくなりつつある現代にあって、「松葉」の奥床しさを今一度味わいたい。