10月の法話 眉は近けれども見えず/故植田観泰日法上人遺稿

P1050209「信友」「妙の見山」は、妙見山真如寺先代日法上人により始められました。その論稿の多くは『星嶺の輝き』に納められていますが、収録されていないものも少なくありません。来年日法上人の第十三回忌を迎えるに当たり、折に触れて遺稿をご紹介していきます。

 標題のお言葉は日蓮聖人「曽谷入道御書」にある。眉は自分で見ることができないのと同じように、私たちは自身のことや自身に降りかかる禍などは、一番身近なことでありながら知らないのである。

 私たちは他人のことはああだこうだと批判するが、自分のことには気付かぬものである。私はお酒を飲んだときは、自分では分からなかったが、随分大きなイビキをかいて寝たらしい。ある時友人と旅館に泊まった。その友人のイビキのすさまじいことは、自他共に認めるところで、私は「今夜は君のイビキで眠れないかもしれないなぁ」といいながら横になった。

 翌朝、よく眠れたと思いながら目を覚ました。ふと見ると横に並んで寝ているはずの友人の姿が見えない。どうしたのかと思ったら、やがて布団を担いで姿を現した。そして開口一番「君のイビキで寝られず、空いた部屋へ避難したんだ」。誠に申し訳ないことだった。

 信仰している人の中にもいろいろの人がいる。「あの人の信仰はまちがっている」などと人の批判をする人がある。批判をするより、気付くように手助けをしてあげればと思うのだが。

 このように他人のことは見えても、自分のことは見えず、見えないから気にもしないのである。

 『法華経』に「三界は安きことなし 猶家宅の如し衆苦充満して甚だ怖畏すべし」と説かれている。ところが私たちは今いる世界がそんな恐ろしいところだとは気がついていない。御仏はそれを知ら

て、私たちを救おうとされているのである。見えないからと、信じないのではなく、素直な心に帰って手を合わせることが信仰の第一歩である。