8月の法話 お経の読み方/末田真啓

お経本 お経は、お釈迦様が亡くなられてから、弟子たちによって、お釈迦様のお説教を再現し、編集されたものです。お経が「如是我聞」(にょぜがもん)ではじまるのは、その成立の様子を伝えています。

 サンスクリット語やパーリー語のお経は、時を経て中国に伝来し、国家的事業として漢文に翻訳されました。なかでも、西暦四〇一年に翻訳された鳩摩羅什の名訳「妙法蓮華経八巻」は、他の漢訳仏典と同様に当時の漢字の読み方である呉音によっていました。例えば、「解脱」(げだつ)や「利益」(りやく)という発音などは、漢音と呉音が混じった仏教用語に独特の読み方です。普段、漢音に親しんでいると読み慣れないと感じるところです。

 「門前の小僧習わぬ経を読む」という諺があります。平生から見聞して慣れていれば知らず知らずのうちにそれを学び知るようになるという意です。お経を唱えることが生活の一部になっているご家庭では、子供の頃から身近にお経を聞いているうちに、自然にあたかも僧侶のように上手にお経を唱えるようになる。日常的に仏壇に手を合わせる家族の様子が想像されます。

 でもその反対に、詰まりながらも一字一字お経と真剣に向き合っている姿にも尊いものを感じます。

 天台大師の作と伝えられている「頂経偈」の一文の「一一文文是真仏」(いちいちもんもんぜしんぶつ)という句は、お釈迦様の説かれた「法華経」の一字一字すべてが仏であるという信仰の世界における心を表した言葉です。
「能く来世に於いて、此の経を持たんは、是れ真の仏子、淳善の地に住するなり」(見宝塔品第十一)と
言う経文があります。法華経の教えを真摯に求め、その一字一字に仏のお姿と御心を求めて真剣に向き合っている人の姿は、まさに「法華経」が説かれたとき、その場に端座して仏の説かれる音声耳を傾け、期待と法悦に心を熱くして聴聞していた弟子菩薩たちの姿そのものなのです。