5月の法話 川の流れのように/森 慈徳

 皆さんは、この題名を見ると美空ひばりさんの名曲を思い出すのではないでしょうか。ですが今回は歌ではなく、川に流れている水の話です。

 元来、川には水が流れているものですが、その川が今ある場所に出来る前、つまり現在の流路が出来る前はどうだったのでしょう。

 一本の川が初めて出来る時、水は水源から溢れ出し自らが流れ行く方向も分からず、未知なる場所へと自らが進むべき道を作り出していきます。ただ一つ確かなことは、自らが流れやすい方向、つまり元居た場所より低い方向へ進むと言うことです。そして、そこにある土や砂を削り自ら道を切り開き、様々なものに潤いを与え、時には困難な障害にも正面から向かい、一本の川へと成長していくのです。

 この水というものをよく考えると、我々が信仰しているお釈迦様の行動や願いに非常に近いものがあるように感じるのは、私だけでしょうか。

 仏様は、すべての生きとし生けるものに対し、その汚れを取り去り、生きている間に最高の潤いを得てもらいたい、つまり苦を取り去り、覚りの境地へと至って欲しいと願われ、教えを説かれました。

 仏様は、私たちの傍を流れる川のように、優しく静かに見守られています。しかし、ついつい私たちは、当然のようにあるものに対し、いつしか慣れ、その有難みを忘れてしまうことがあります。ですから、今一度、身近にあるものの有難さを見詰め直すことによって、仏様・法華経・お題目の有難さを再確認することが必要なのです。

 日蓮聖人は「一時的に燃え上がる火のような信仰ではなく、持続して流れる水のような信仰が尊いのである」と、信仰に対する姿勢を示されています。

 私たちも火のような信仰ではなく、川に絶え間なく流れる水のように、常に仏様・法華経・お題目に対する持続した信仰の姿勢・心を持ち、日々の生活を送ってまいりましょう。