6月の法話 奥之院にて/森 慈徳

先日、真如寺奥之院でお給仕をさせていただいていた時のことです。

私が境内の掃き掃除を終え、寺務所へ戻ろうとした際に、庫裏の目の前にある一本の木の根元にたくさんの雑草が生えてきていることに気がつきました。そこで、午後からその木の根元に生えている雑草を抜き始めたのです。しかし、その作業中、この雑草も必死に生きているんだと言うことを思っていると、雑草を抜いていくにしたがって自然と心の中でお題目を唱えている自分がいることに気付いたのです。

人としての感性で見ると、その雑草の一本一本が景観を乱しているように思えますが、必死に根を生やし、一生懸命その命を全うしようとしている雑草一本一本の意志が、『自分たちも命があるのに…』と私に主張しているようでなりませんでした。私は、彼らの命の火を消してしまっていたのです。だから、自然とお題目を彼らのために唱えていたのだと感じています。

今回の経験から、私たち人間は他の命を頂戴し生かさせていただいているということと、戴いた命を自分の人生に活かしていかなくてはならないということを再認識させて戴きました。考えてみると、私たちの今ある生は、様々な命を戴いてきた結果なのです。

仏様も様々な食べ物、つまり他の命を戴いてその生を全うされ、仏様の命を支え続けた他の命は、仏様の命を永らえさせるという功徳を積むことが出来たのです。しかし、私たちは仏ではありません。ですから、私たちは、私たち自身が功徳を積むことによって、私たちの命を支えてくれている他の命を活かしていくことが大切だと思うのです。

私たち僧侶が毎日の食事の前に唱える食法の一節に「我等これ(他の命)によって身心の健康を全うし、仏祖の教えを守って四恩に報謝し、奉仕の浄行を達せしめたまえ」とあります。この精神で、仏・菩薩・諸天善神に感謝し、頂いた命を忘れず日々の勤めに励まなくてはなりません。