11月の法話 トイレの神様/倉橋観隆


 神様は色々な所におられます。山には山の神、海には海の神、そして、家には家の神。お手洗いにも神様がおられます。五年ほど前「トイレの神様」という歌が大ヒットしました。植村花菜さんという歌手が大好きだったおばあちゃんとの思い出や教わったお話を綴った歌です。ご記憶の方も多いでしょう。その歌詞の一節に「トイレにはそれはそれはきれいな女神様がいるんやで。だから毎日キレイにしていたら女神様みたいにべっぴんさんになれるんやで」とあります。

 そのトイレの神様の名を仏教では烏蒭沙摩明王(うすさまみようおう)と呼びます。現在日本では水洗化が進みトイレは不浄な所、とのイメージが薄らぎつつあります。しかし、ひと昔前はトイレというより、便所と呼ばれる方が多く「ご不浄」とも言われ絶対必要な所でありながら「陰」の最たる場所でした。そこを守るこの神様は体から炎が出ていて、その炎で不浄を焼き払うということです。神様方の中では最もきれい好きな神様だそうです。

 ここで少し見方を変えれば、そんなにもきれい好きな神様がなぜ最も不浄な場所を守る神様になったのでしょう。神様だって辛いことではないでしょうか。

 それは神様も常に修行をしておられるということです。そのことを自ら身を以て私達に教えて下さっているのです。通常私達が思いがちなのは、神仏は完全無欠で既に完成された方々であり私達の上にいて、そこから私達を守り引っ張り挙げようとして下さっているのだと。しかし、本当は最も辛い修行を、それも片時も休まずに行い続けて下さっているのです。そこが神仏の尊いところなのです。

 法華経の「自我偈」にある「常に説法教化す」とは広くはこのことを指し、その諸天善神の王がお釈迦様です。お釈迦様を最も忍耐強い方として「能忍」と呼びます。

 私達もそのお心に応え、せっせと修行に励み、心のべっぴんさんになろうではありませんか。