8月の法話 お盆に寄せて/倉橋 観隆

 先日近所の親子二代六十年続いたお豆腐屋さんが閉店することになりました。私はそこのお豆腐が好きでよく買っていたのですが近くに大型スーパーが次々と出来て客足が遠のいてしまいました。ところが閉店を予告する貼り紙が出た途端行列が出来るほどの盛況になりました。お客さんは口々に「なんでやめるの、美

味しいのにもったいないわ…」店主はその声に感謝しながらも「残念ながら閉めさせてもらいます」と寂しそうにつぶやきました。

 そんな光景を方々で見かけませんか?閉店となると出来る長蛇の列。電車のラストラン。飛行機のラストフライト等々。

 私たちはいつまでもあると思うとそれへの関心が薄れます。しかし、これで無くなるのかと思うと初めてその存在に意識を向ける。この心持ちはあらゆる事にいえるのではないでしょうか。実はこの心の作用にこそ私たちに人生の迷いを生じさせている根本原因が潜んでいるのです。

 すでに三千年前、お釈迦様はそんな私たちの得手勝手な心を見抜いて次のように教えられていたのです。

 法華経寿量品「自我偈」

「常に我を見るを以ての故に 而も僑恣(きょうし)の心を生じ 放逸にして五欲に著し 悪道の中に堕ちなん」とは。

 「いつまでも親が元気でいるなら子どもは甘えて自立しようとせず、結果道を踏み外してしまう。そうさせない為に敢えて親は姿を消すのだよ」といわれているのです。さらにこの言葉の奥底には「万物に宿る命には必ず終わりがある。限りあるからこそ尊く扱わなければならないのだよ。死ぬのも命の表現なのだ」と教えられています。

 「いつまでもあると思うな親と金」だからこそ大切にしなければいけないのではないでしょうか。

 今月はお盆を迎えます。ご先祖様に思いを巡らせることで自らの命の尊さを再確認する機会なのです。

 「老いて後 思い知るこそ悲しけれ この世にあらぬ親の恵みに」