10月の法話 天に唾すれば/日 慧


 「家へ帰って車の後ろの座席を見たら、ひどいことになっていたんだ」

 学生時代のこと、ある友人の話である。

 缶ジュースを飲みながら運転していたが、飲み残したジュースの缶を置く場所がなく、こぼしてはいけないので、周囲に他の車がいないのが幸いと、運転しながら窓の外に缶の中身を空けたという。空の缶は足下に転がして、帰ってから見ると、後部座席が汚れているではないか。

 大変な嫌がらせをされたものだ、と驚いたそうだ。しかし冷静になって考えてみると、後ろの窓が開いており、運転席で外に捨てた液体が、風に乗って後部座席へ流れて入ってきたということに気付いた。

「結局犯人は自分自身だったんだ」

 誰に文句を言うわけにも行かず、友人に愚痴話をして、少しでも憂さを晴らそうということなのだろう。

 「天を仰いで唾する」という諺がある。天に向かって唾をすると、それが自分の顔にかかってくることになるように、他を害するような行為をすると、かえって自分自身が害を蒙ることになるということだ。今の例で言えば、公共の場である道路に不要なものを捨てて汚そうとした行為が自身を汚すという結果になって還ってきたわけで、この友人には可哀想だが、当然の報いだということになる。

 たばこのポイ捨てなど見ると、その吸い殻を突きつけて、捨てた本人に言い聞かせたくなるような話だ。仏教ではこれを因果応報と呼んでいるが、誰もが分かっているようでも、中々実行できないことである。

 ジュースぐらいではまだたいした実害はない。しかし広い視野から考えれば、私たちが投棄したゴミや無秩序な造成による自然破壊などが、将来どのような結果を引き起こすことか。

 誰もが、自分だけではなく他の人・全ての存在と共に生きているんだという、『共生』の心を自覚し行動しなくては、遠くない将来必ずそのしっぺ返しが来ると言わねばなるまい。