2月の法話 一大事/新實信導

 人生を左右する一大事であった。

それは、私が小学四年の頃。三歳年下の弟と一緒に小学校へ登校途中にその事故は起きた。
 

 いつものように家を出て国道を渡ろうとしたが、左方向へ進む車の列で大渋滞であった。

車が一向に進まないので、弟とともに車の列を突き切って、国道を横断しようと決心した。
 

 渋滞の列を抜け、道路の中央にさしかかった、その時である。

反対車線から車が走ってきて出会い頭に接触し跳ねられてしまった。
 

 実は車と接触した瞬間の記憶が全くない。

記憶があるのは、事故現場前の消防署の中に見える救急車まで歩いて行こうとしたことであった。

事故をおこした運転手だったろうか、

「だいじょうぶ?ここでしばらく待ってて…。」

といわれ、路肩に座った記憶だけが残っている。
 

 その後の記憶もとぎれ、次の記憶は市民病院で検査をおこない病室から出てきたら両親がいたことであった。

診察結果、どこも異常なし。かすり傷が二カ所だけであった。

噂によると、車にはねられたとき数メートルは飛ばされたという証言もあったが、

何しろ事故にあった私がその時の状況を全く覚えてなかった。
 

 国家の一大事、人生の一大事など、重大な事件が起こった時に使う「一大事」とは法華経が語源である。

法華経方便品に「諸佛世尊は、ただ一大事の因縁をもっての故に、世に出現したもうと名づくる。

諸佛世尊は、衆生に仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう」とある。
 

 仏知見とはものの本質を見極める仏の智慧を指し、常に仏はその智慧を私たちに習得させようとされている。

これが諸仏の一大事因縁であるという。

つまり十方諸仏、過去仏、現在仏、未来仏、そして釈迦仏の本願は私たちを仏と同じ世界に導き入れることである。
 

  この事故以来、自分が生きているのでなく生かされていることを実感したようである。

まさに仏の一大事因縁を受けるためである。