9月の法話 退屈/日 慧

 

 することもなく庭を眺めているご隠居さん。思わず大きな口を開けて欠伸をしながら、ふと見ると、庭に放されている鶏が上を向いてコケコッコーと鳴いているのが眼に入った。

「鶏も退屈なのか欠伸をしているじゃないか」

 耳の遠いご隠居さんは、大きな口をあいた鶏が自分と同じように欠伸をしていると思ったようだ。と、これは江戸小咄の一節。へいご退屈さま。

 さて退屈というと、一般に、暇ですることもなく、飽き飽きしていることをいう。仕事に追われて休む間もないと、一日でもいいから何もしないでゆっくりしてみたいものだ、などと考える。

 山の中の静かな温泉宿へでも行って、一日お湯につかったり、ぶらぶらと杉木立の山の中を散策して過ごしてみたい。そんな情景があこがれとなって、頭に浮かんできたりする。

 ところが、さて何もする事がないとなると、果たして本当に楽しいと感じるだろうか。これはこれでまた辛いものである。何もしないというのは耐えがたいようで、子供でも、長い休みが続いてする事がないと、逆にイライラしているのを見かける。

 犬など、する事がないと寝そべっていつまででもじっとしているが、人間はそうはいかない。何かすることはないか、面白いことはないかと、暇をもてあまし苦しむようだ。

 この退屈という言葉は、実は元々は仏教から来たものだという。広辞苑には、仏道修行の苦しさ、むずかしさに負け、精進しようとする気持をなくすこと、とある。退は退く、屈は志を曲げて従うという意味がある。一生懸命修行していても、時に辛いと感じ逃げ出したいと思うことがある。志を曲げることなく続けるのは容易なことではない。それを乗り越えていくことがまた修行である。

 ようやく涼しさを感じるようになったこの頃。気力を充実させて、退屈の虫から脱却すべく、お互い頑張りましょう。