11月の法話 健康診断/植田観肇
先日、久々に健康診断を受けた。以前は毎年受けていたのだが、ここ最近はずいぶん足が遠のいていた。
忙しさにかまけてというのもあるが、もし自分が気付かないうちに重大な病気にかかっていたらどうしようという、怖さもあったのだと思う。
健康診断自体が終わってもしばらくはそわそわと落ち着かない。その場で全ての結果が出れば良いのだがしばらく時間がかかる検査もあるからだ。
そんな時はいつも以上に健康を気にして、普段見ないような健康番組を見てしまう。
近頃は医学を題材にしたテレビ番組も多くなってきているが、その多くが恐怖をあおるような病気の紹介だ。
普段は他人事と何気なく見ていた番組でも、健康診断の結果待ちの時に見ると打って変わって自分に言われているような気分になってくる。
そんな番組ばかり見ているとますます気が滅入ってきて、もし重大な病気が発見されて、それが原因で死んでしまったらどうしようと悪い想像はさらに加速していく。
だが、行き着くとこまで行ってしまうと、次にその想像の刃は今の自分に返ってくる。もし、あと数ヶ月で死んでしまうとして、本当にこの生き方で良かったのだろうか、もっと力を出せたんじゃないか、今からでもまだやれることがあるんじゃないか、と人生を考えるようになった。
数日後、検査結果を手にした私は、連日悩んでいたのがウソのように元の生活に戻っていってしまった。
ひるがえって、日蓮聖人は「まず臨終のことをよくわきまえて、その後で他の事を考えるべきである」と仏教のみならずあらゆる経典や書物を勉強され、お題目を唱えられるに至った。
日蓮聖人のように生きることまではできなくても、どう死にたいかを考えたとき、どう生きれば良いのかはおぼろげながら見えて来る。死を考えたあのときの自分を少しでも思い出し、目の前の道をお題目と共に歩んでいきたい。