11月の法話 洗濯/中澤慈弘
洗濯をしたことがありますか?私は毎日僧侶の服を着ており、もちろん洗濯もします。僧侶の格好には白衣や襦袢、足袋といった白い物が多く、汚れが目立つので大変です。
私は昨年まで、身延山久遠寺で僧道修行をしておりましたが、当然自分の洗濯は自分でしないといけません。ですが、それまでに一人暮らしの経験があったため、白衣こそ洗わないものの、洗濯自体は慣れているとの自負がありました。
身延に行って初めて洗濯したときの事、溜まった洗濯物を洗濯機に入れ、洗剤・柔軟剤を入れ、スタートボタンを押しました。小一時間後、完成した洗濯物を取り出して見てみますと、何故か白衣や襦袢の襟元の汚れ、足袋の裏の汚れが落ちていません。
この時、ハッと母の事を思い出しました。母は洗濯機に入れる前に、必ず汚れの目立つところを手洗いしそれから洗濯機に入れていました。今まであまり気にしていませんでしたが、その時初めて、母が一手間も二手間もかけて私の白衣や足袋を洗ってくれていたことに気付いたのです。
汚れが落ちていない物に比べ、きれいな白衣、真っ白な足袋、それはやはり気持ちのいいものです。母と私の行動の違いはその一手間だけですが、意識の上で大きな違いを感じました。母が洗濯物の汚れを落とす手間は、相手のことを思っての行動なのです。
日蓮聖人は『食物三徳御書』の中で「人に物を施せば我が身の助けとなる」とおっしゃっています。この場合の物とは、物質的な物だけでなく自分の持つ真心を施すことでもあります。
人は皆、自分の気付いていないところで多くの施しを受けています。まず自分を支えてくれている人に目を向けてみてはどうでしょう。そして感謝の気持ちをもって、自分のことだけではなく、人のためにも労を惜しまないことです。これが自身の心の洗濯となり、自分も人も気持ちよく生活できることになるのではないでしょうか。