12月の法話 フランスパン/新實信導

 焦げすぎ、固すぎ、潰れすぎのフランスパンができた。これで三度目である。どうしても納得のいく代物ではない。

 以前は近所のパン屋さんで美味しいフランスパンを購入していたが、ご主人が体調を崩したため、その店が突然閉店してしまった。

 そのため、美味しいフランスパンを食べたくて自分で作り始めたのだが、これが実に困難を極めるものであった。材料はいたってシンプル。

 小麦粉・塩・イースト・水だけなので簡単に作れると思った。分量どおり混ぜたパン生地は想像以上に水分が多く、捏ね始めると手に生地がまとわりつき、べとべとで始末におえない。
つぎに生地の一次発酵を終え、打ち粉を打って二次発酵の形成用のパンマット(厚手の天竺綿)を敷くとパン生地がマットにこびりついて悪戦苦闘の連続であった。何度も投げ出しそうになったが、数度失敗を重ねて、ようやく曲がりなりにも焼けるようになった。

 味はまずまずでも、見た目がいまいち。焦げすぎで表面がパッリとせず、中身もモチモチ感に欠けるものであった。

 パン焼きに奮闘しながら思ったことがある。実は信仰もそうではないだろうかと。「南無妙法蓮華経」と唱えることは簡単なことであるが、果たして心底から納得のいく御題目を唱えているだろうか、という問いであった。

 日蓮聖人は「妙法蓮華経の上に南無=帰依の二字を置けば南無妙法蓮華経の題目となる。
 妙とは具足=完全円満な教えであり、法とは六度万行=六波羅蜜に集約される全修行である。菩薩たちの六波羅蜜をはじめとするあらゆる修行がこの題目に具足している(開目鈔)」と教示されている。
 つまり法華経の一字一字が仏様であり、この法華経に己の全てを捧げて信じることで、本来ならば六波羅蜜の修行をしなければ成仏はあり得ないが、素直な心で御題目を唱えることでその功徳を自然に頂戴できるという。簡単なものこそ奥が深いものかも知れない。