4月の法話 いのちとは?/新實信導
先日、久しぶりに実家へ帰った。その時の出来事である。母親の日課の一つに毎朝、空き瓶を持って近所の牛舎まで生乳を分けてもらいに行くことがある。
私も出かける用事があって生乳をもらいに行く母親に同行した。牧場に着くと道路の左手に牛舎があり、右手には畑があった。その畑の手前に大きな緑色のプラスチックカプセルが二台置いてある。このカプセルには通気口のようなものが両脇に開いており、正面には窓らしきものがあった。
その小窓を開けてビックリ、なんとその中に一頭の牛がいるではないか。
牧場の方に理由を聞いてさらに驚いた。牛乳を得るために雌牛を飼育しているが、そのために雄牛も生まれる。雄牛は成長すると食肉用として運ばれていくのである。通常、牛は何頭もまとめて飼育するが、この状態で連れて行くと牛が興奮するのか、非常に嫌がって運ぶのが困難であるため事前に他の牛と隔離するそうである。すると、牛も観念してか、すんなりと車に乗ってくれるという。
私たちの食として身近な牛乳と牛肉であるが、食品になる前の生乳と牛を見たとき、なんとも言えぬやり切れなさを感じた。私たちは他の生命と引き替えに、自分の生命があるのだと考えさせられたのである。
日蓮大聖人は「稲の種は生長して苗となる。その苗は稲草に育ち、やがて稲草は米を実らせる。その米で私たち人間は生命を長らえることができ、そして仏と成ることができるのだ(王日殿御返事)」と教示されている。
私たちは毎日、稲の実であるお米の命を頂戴している。さらに数多くの命をいただいて、自己の生命を長らえている。改めて命の尊さ、大切さを噛みしめるとき、その命の恩恵に感謝し自らが仏と成ることでその恩に報いることができることに気づく。仏になるためには、感謝の念を持って、法華経を規範とし、自分にできることを見いだし、日々の生活に生かしていくことが大切だといえよう。