12月の法話 悪いのは誰/植田観肇

 ウナギの産地偽装やお惣菜のメラミン混入事件など食卓の安全が脅かされそうなニュースが年々増えてきているような気がします。 最近のスーパーでは、野菜を並べてある棚に「私が作りました」と書いた顔写真入りのプレートが貼ってあるところが多くなってきましたが、そうでないところなどは本当に安全なのかどうか疑い出せばきりがありません。

 その点近所の露店で売っている百円野菜は顔見知りの地元の方が作っているので安心して食べられます。昔は当たり前だった「作り手の顔が見える」ことが今の時代においては貴重になってきたというのは不思議な感じがします。

 作り手を直接見ることはできなくても、一昔前の八百屋さんであれば毎日買いに来てくれるお客さんの喜ぶ顔が見たくておいしい野菜を用意してくれたかもしれませんし、おいしくなくても八百屋さんに文句の一つも言うことで信頼関係が築けました。しかしスーパーでは売り手の顔も見えませんし、これが加工食品になるともっと複雑に分業化されている為、もうお手上げです。

 なぜこんなことになったのでしょうか。行きすぎた資本主義社会の弊害とか規制が緩いからだとか議論は尽きませんが、結局のところ根本の原因は私たちの心の持ち方にあります。

 私たちは相手の顔が見えなくなると途端に我が大きくなってきて自分の事ばかり優先して行動してしまいがちです。しかし、そこで想像力を働かせて自分の先にどんな人がいてどんな生活があるのかを落ち着いて考えてみて下さい。

 日蓮聖人は一生成仏抄のなかで、私たち衆生の曇った心も磨けば必ず光輝く明鏡となる、それを磨くのがお題目であると説いておられます。自分の行動の先にいる人が少しでも幸せになる事を考え実行する。小さい一歩かもしれませんがそれこそがお題目の実践であり光輝く仏の心への大きな一歩であると言えるのではないでしょうか。