3月の法話 普段着のお題目/植田観肇


 最近京都を歩いていると着物を着ている外国人をよく見る。しかし、着物に詳しい人が見ると、柄や生地が季節にあったものでなかったり、何か着方がおかしかったりするそうだ。

 着物を見る機会は増えてきたものの、実際着物の市場規模を見てみると、四十年前から比べると現在はたったの十五パーセントほどになってしまったという。

 いま着物と言えば、とても高価で特別な日にしか着ないイメージがあるが、私の曾祖母は普段から着物を着ていたし、戦前は普段着として着物で生活しているひとも多かったのかもしれない。それを考えると全体の売上も下がって当然といえる。

 また、現在着物に興味をもって着てみたいと思ったとしても、高価なものしかないためなかなか手が出せない。しかも、長い間に作り上げられてきた伝統があるだけに、しきたりや作法が細かく決まっていたりするので、うっかり間違って着て誰かに指摘されたらと思うと、よけいに着物を着るのが億劫になる。

 そうやって着物を着る人の裾野が狭くなってくるとますます着物は限られた人だけの趣味となり、結局近づきがたい閉じた世界になってしまうのではないか。

 そこまで考えて、ギョッとした。もしかしてこれは仏教も同じかもしれない。

 お寺でもいろいろな作法がある。そして作法に詳しい人は、作法と違う事をした人につい、それは間違っている、と言ってしまう。しかし、よくよく考えると作法というのは、お釈迦さまや日蓮聖人を敬う精一杯の気持ちが形になったものであり、その気持ちがありさえすれば作法に間違いなどというものはないのではないか。洗練された所作は美しいが、自分たちで敷居を上げて、肝心の教えを広げることを妨げているのではないか。

 形にこだわるよりも、まずはお釈迦さまがせっかく残してくださったありがたいお題目、お気に入りの普段着のように大事に気軽にお唱えしていきませんか。