2月の法話 寝ずの番/服部憲厚


 先月、祖父の十七回忌の法要を勤めた。孫、曽孫の代まで集まって、しめやかに、というより賑やかな法事となり、祖父もきっと喜んでいるに違いない。

 思えば、祖父が遷化したのは、私が中学3年の冬のことである。ありありと記憶しているのは、お通夜。ことに「寝ずの番」でのことである。

 昨今では「通夜の儀」のみを指してお通夜と思われている方も多い。お通夜とは読んで字の如く、夜を通して行うのが本義となる。

 これは、お釈迦さまが御入滅されたとき、お弟子たちがお釈迦さまを囲んで悲しみ、今まで聞いたみ教えについて夜を通して語りあった、という故事に習ったもといわれる。

 葬儀の段取りから弔問の対応までをこなし、疲れ果てた親戚の伯父は、我々従兄弟たち元気な若手にこの「お通夜」を任した。私達に与えられた任務は、ローソクの灯、線香の煙が絶えないよう寝ずに番をすること、いわゆる「寝ずの番」である。

 とはいえ、子供にとってはまたとない公式に認められた夜ふかし。我々、従兄弟たちは、祖父の眠る祭壇の前に陣取り、トランプに笑い話に思い思い心置きなく寝ずの番を楽しんだ。久々に従兄弟が集まり夜通しのお楽しみは、今も褪せることのない記憶である。唯一、年少6才だった従兄弟は、さすがに親に寝かせつけられ、この「寝ずの番」のメンバーに入れぬことを泣いて悔しがったくらいである。

 案の定、本義を忘れ遊び疲れた私達は、線香の煙も絶え、夢うつつのまま葬儀の朝を迎えることとなる。

 生前、祖父は、孫が集まって賑やかにしているところを祖母と共に微笑みながら眺めていた。

 あの夜の出来事は、祖父にとっても、私達にとっても幸せなひと時であったに違いない。法事が来るたびあの夜を思い出す。

 死者と生者、この世とあの世が混沌とした夢のような時間。思い出す度いつも私はそこで祖父と会える。