6月の法話 道場生とともに/日 慧

 日蓮宗信行道場。宗門を背負って立つ教師=僧侶=になるには必ず通らなくてはならない修行の場だ。

 身延山に年に三回設けられており、それぞれ三十五日間を過ごす。この春、私はその現場で直接指導に当たる訓育主任に任ぜられ、道場生六十五人と寝食をともにした。

 荒行堂とは異なるが厳格な日課が定められており、午前四時の水行に始まり、午後九時の消灯で終わる。その間、仏祖三宝に仕えることを第一として、僧侶としての心構えから、座作進退の作法、読経唱題の行、そして教学の勉強と、幅広く僧侶としての基礎を一通り学ぶ。正座することも多いが、また奥之院や七面山への登詣など、足腰を使うことも多い。今まで二回この役に着いたが、すでに前回から九年が経っている。 鈍った今の身体でどこまでやっていけるのか。

 案の定、まず最初の食事で、これは大変だと気を引き締めた。五分間ほどで食べ終わる。九年の間にすっかり忘れていたことだ。ほとんど噛まずに飲み込まないと後れを取る。改めて我が身を通り過ぎていった歳月に思い至った。衰えを感じるということは決して楽しいものではない。

 しかし道場生の意気込みはすごい。大学を出たての人もいる。でも私より年長で、第二の人生を僧侶として社会に貢献しようという人もいるのである。そして彼らはまさに今この瞬間、僧侶としてのスタートラインで胸を打ち振るわせているのである。そこには四十年前の私の姿が見える。

 人の生命は永遠のものではない。日々に変化し衰えていくのは逆らうことの出来ない事実である。しかし変わらないものがそこにある。今も道場生を見守り、そしてまたこの私を見守って下さる仏の存在である。仏はいつも変わることなくこの私を見守って下さっているのである。これが仏の大慈悲の心というものである。有難いと思った。教え指導するべき私であるが、道場生とともに教えられていたのである。