5月の法話 いただきます/日慧

ぬいぐるみのような子犬は、犬好きでなくても、可愛いと思う。でもかわいがるばかりで油断すると、思わぬ目にあうという。

たとえば食事を与えるときは、主人や家族のあとに与えなくてはならない。犬はもともと群れで生活する動物で、今でも群れの中の順位には非常に敏感だという。獲物をしとめて食べる場合、ボスから順に口を付けるのがルールとなっていた。そのため、子犬が可愛いからと先に食べ物を与えると、自分が家族の中で一番順位が上だと誤解してしまう。これがそのまま大きくなると、自分より先に誰かが食べ物に口を付けると怒り出すようになる。そうなると始末に負えず、家中が犬のために大騒ぎすることになってしまう。

これを聞いて思うのが、小さい頃からの習慣だ。お客様にお土産をいただいたときなど、必ず子供が仏壇にもって行き、ご本尊ご先祖にお供えさせられた。
「マンマンちゃんにお供えしておいで」
そう言われてお供えし、その後ではじめて口にさせてもらったものだ。子供ながら、そこには「戴きます」という思いがあった。姿は見えなくても、自分より偉い、そして自分たちを見守って下さる存在があるということを肌で感じていた。

最近、凶悪な、人間としてのルールをまるっきり無視した犯罪が増えている。自分以外の他人への思いやりの心などはまるでない、残虐で卑劣な行為は目に余る。その犯罪行為の後ろには、自分が頂点にいるという、あたかも自身が神であるかの思いが見られるが、これはまるで、先述の甘やかされた子犬のようなものではないだろうか。

「生命と申すものは一切の財(たから)の中に第一の財なり」とは日蓮大聖人の説かれるお言葉だが、互いに生命を尊重しあうことは、人が人として生きる基本である。社会性を喪失した社会とでも言うべき今の時代、まずマンマンちゃんにお供えし、「戴きます」と言う気持ちを大切にし、次の世に残していきたい。