6月の法話 あの感動をもう一度/偉美理庵
本を読むのは楽しい。学術論文であっても時代小説であっても、しばしその世界に浸りきるのは、いながらにして別世界を旅するような気分になれる。
今日は気楽な旅行気分を味わおうと、時代小説を買ってきた。前から知っている作者の本だ。寝る前のひととき、布団に潜り込んでページをめくる。文句なしに面白い。至福のひとときだと感じる。
ところが読み進む内に、あれっと思った。すぐ起き出して本棚を探ると同じ本が並んでいるではないか。すでに読んでいた本をまた買ってしまったのである。勿体ないことをしたといえばその通りだが、二回目といっても初めて読んだようにハラハラドキドキしながら読んだのだから、まあそれもいいかと自分を慰めた次第である。
「老い」を感じることの一つに、記憶力の低下がある。今聞いたことを思い出せないことがあるのだ。
若い頃は一度聞いたことは、名前でも論説でも、すぐ忘れるようなことはなかった。次の日あたりに、昨日こんなことを聞いた、こんなことがあった、などと思い出し、再び余韻に浸っていたものだ。それがまた復習になり、記憶を強固なものにしていたのだろう。
ところが今は思い出し余韻を楽しむ暇がなくなってしまった。結果は記憶を留めるどころか、新しいことを追うのが精一杯となっているのが現状だ。そればかりではない。そもそもこの身に関わる仕事など、情報の量が、若い頃と比べるとケタ違いに多くなっているのも大いに影響しているのではないだろうか。
などと、言い訳をしてみても、記憶力が低下してきたのは紛れもない事実だ。
でもこれを嘆くことはない。私たちが日々に読ませて戴く法華経だが、読む度に新たな感動を以て仏に接し、その教えをいただくことができるのである。たとえ娯楽小説であっても、同じ本を読むたびに新鮮な気持ちで何回も感動することができるのなら、それも悪くはないのでは……。