9月の法話 快適な生活/植田観肇

 

 いやー涼しいですねぇ。市内から来られたご信者さんがとくとくと能勢の涼しさを語ってくれるのだが、聞いている私の背中は汗まみれであることが多い。

 能勢の地で暮らしていると真夏にもかかわらず涼しいという声をよく聞く。実際、能勢の夏は涼しい。大阪市内に比べると気温も3度~5度は低いようだし、木陰で風を受けるとクーラーの機械的な涼しさではなくマイナスイオンたっぷりの冷気が体を包む。

 このように書くとテレビの広告にでも出てきそうな良いところに住んでいる気がしてくるが、ずっと能勢で暮らしていると全くもって涼しいと感じられない。体が慣れてしまってあまり涼しく感じないのだ。

 そんな体でたまに市内に出て行くと、あまりの暑さに車を降りて数分でフラフラになってしまう。そそくさとクーラーの効いた建物の中に避難するのだが、平然と外を歩いている人を見るとこれも慣れだなと感心してしまう。これが冬だと逆になるのだろう。慣れると多少の負荷も気にならないし、また周りから見て快適に見える暮らしもそれほど楽に感じない事も多い。

 隣の芝生は青く見えるものだが、仏の視点で見ればそんなに大きく違わない。例えば、私たちは地位や名誉や財産などを重視しがちだが、一見華やかで皆の羨望を浴びている人の中にも淋しく貧しい人生を送っている人がいるものだ。

 日蓮聖人はそんな既存の価値観にすがるのではなく法華経を信じ行ずる生き方こそが最高の人生だと断じられた。たとえばこんなエピソードがある。京都留学中の弟子が高位の公卿に法を説いたと聖人に自慢した所、世俗の権威に屈することは名誉でも何でもないと厳しく叱責したと言う。

 私たちはすぐに仏のようにはなれないかもしれないが、うらやましいなと思った時、それが法華経に照らしてささいな事か、それとも大切な事か、立ち止まって考えることができれば、快適な生活はきっと向こうからやってくる。