7月の法話 ウソと方便/植田観肇

 「ちがう。もう宿題したもん」

 遊ぶ前に宿題したらと注意したところ、子供が大きな声で否定する。家に帰ってからランドセルを開いていないのだから、間違いなく宿題はしていないと思うのだが、そこまで強く否定されると、もしかしたら学校でしてきたのかなとも思う。しかし、たいていその後少し突っ込むと、それがウソだとすぐにばれてしまうのだ。

 子育てをしていると子供のためを思っていろいろ注意することも増えてくる。そんな時、子供の反応はだいたい次の三つだ。一つはとにかく謝る、二つめは理由を付けて何とか弁解しようとする、そして三つめはウソをつく、だ。

 子供も幼稚園児くらいになると口も達者になり、本人なりにがんばって弁解しようとする。だがそれもだんだんと面倒くさくなるのかあきらかにすぐ分かるウソをつくときもある。たいていはすぐばれて余計に怒られるのだが。

 心理学的にも、長期的なメリットより短期的なリスク回避を優先してしまうのが人間の性だというが、行き当たりばったりのウソの先にはひどい結果しか見えてこない。

 ところで「ウソも方便」などと言う諺もあるが、ウソと方便は全く違う。「方便」とは仏教用語で、私達がよく読むお経「法華経」の「方便品」に由来する。

 ちなみに方便品に書かれている内容を簡単に説明すると、法華経より前に説かれた教えは真の教えに導くための仮の教えで今から本当の教えを説くよ、今までの教えは真の教えを説くための方便だったんだよ、というものだ。

 「ウソ」は嫌な事から逃げるためだけの言葉で誰も幸せになれないが、仏様の説く「方便」とは人の理解度や時代の世相にあわせ、遠いゴールに向かうための一つのステップだ。

 何を隠そう、法華経で明らかにされた真の教えこそがお題目の実践なのだ。私達もゴールに向かってお題目修行に励みましょう。