4月の法話 昼夜常精進/日  慧

今朝はカミナリとともに雪が降り出した。もう桜が咲き出すところになっての寒の戻り。

辞書では、春先に一時的に寒さがぶり返すことを寒の戻りと言うそうだが、先日までの暖かさに慣れた身体には応える。時折出てくるクシャミやセキ。これは花粉症かそれとも鼻風邪の故なのか。ハナをすすりクシャミに悩まされる当人としては、どちらでもいいから早く治ってすっきりしたいというのが本音である。

 

そう言えば、お彼岸が過ぎてから雪が降ることは過去にも度々あった。記憶の古い部分では、温かく重い雪のために、京都北部では雪の重さに耐えかねて、北山杉が大量に倒れて大きな被害が出た年もあった。

しかし、私にとって最も印象的なのは昭和五十二年四月十日の雪だ。その前々日八日ちょうど花祭りに合わせたかのように咲き誇った桜の花が、そろそろ散り始めるという日に、雪が降った。桜吹雪ならぬ、本物の吹雪である。道が通れなくなるほどのことはなかったが、雪と桜の花とがあやなす不思議な白い風景に見入ったものであった。

通常ならもう散り始めるはずの花が散ることなく長く残っている。いつまでも花を楽しめて、これはいいと思った。ただ、これにも限度がある。寒さに縮こまった花びらがひっついている桜の枝は、いつもの華やかさを少しも見せてはくれない。そよ風に吹かれて一斉に花吹雪が舞うという、少し寂しげではあるが華やかな光景はこの年はついに見ることができなかった。

散り際が悪いなどというつもりは毛頭ない。ただ昨年までがこうだったから今年もと、考えるべきではないと言いたい。

冬は必ず春となる、とは宗祖のお言葉だ。でも暖かくなったと気を弛めていいとは説かれてはいないのである。気を弛めることなく昼夜を分かたず、いつも仏とともに歩んでいるという自覚のもと、日々精進するということが大切なのだ。修行とはそういうものだと心得たい。