6月の法話 兄弟げんか/植田 観肇

 「あんたが悪いからこうなったのよ」
 「そんなことないもん。お姉ちゃんが悪い」

 やれやれ、またケンカが始まった。さっきまで仲良くしていたかと思ったら、いつの間にかケンカをしている。

 そんなケンカもしばらく経てば、まるで何事も無かったかのように、また仲良く遊んで

いる。一体、仲がいいのか悪いのか。

 また内容も、大抵はどうでもいいような些細なことでケンカしている。本人にとっては大切なのかもしれないが、ある程度経験を積んだ大人からみればどうでもいいことで争っているので、笑っては悪いと思うが心の中でついつい笑ってしまう。

 そんなほほえましいケンカも、こちらの仕事中にされると、気が散って仕事に集中できない。そうするとケンカが収まるまで我慢できずに、仲裁に入ってさっさとケンカを終わらせようと声をかけてしまう。だがこれもなかなかタイミングが難しく、大抵は火に油を注ぐことになり、お互いもっと怒り出して収集がつかなくなることも。結局あたたかく見守るのが一番なのだが思いのほか忍耐が必要だ。

 さて、この構図をどこかで見たことがあると思ったら法華経だ。法華経の中でお釈迦様は皆の父であり、さらに常に私達を見守ってくださっていると説かれているのだ。

 永遠の命を持ったお釈迦様からすれば、刹那の時間のなかであーだこーだと言い合う私達は、きっと愛しい我が子を見守る親のようなものではなかろうか。仏からすれば取るに足らないことで争う私達を、たゆまざる忍耐でにっこり笑っていつか気づくはずと信じてくださっているのだ。

 仏さまの忍耐力には比べるべくもないが、まずは子供のケンカをあたたかく見守れるようになりたいものだ。そして、自分もまた仏の子としてつまらないことに意地を張らないように少しずつでも努力していきたい。