8月の法話 如来の光が照らすもの / 相川大輔

 「お父さん。」

 「何だい?」

 「今みたいに、車に乗って僕が前に進んでいくと、周りの景色はなんで後ろに動いていくん?」

 これは、軽度の自閉症スペクトラム児である小学四年の息子の問いである。

 通常、多くの人は、自分が車で前方に移動すると景色は後ろに遷移していくことを何度か経験すると、それ

は経験則として“当たり前のこと=知識”になる。

 しかし息子の場合、目に映る情報から受ける刺激が、私の受ける刺激よりも、ずっと臨場感のある迫力満点のものであるようだ。

 そしてその迫力満点の刺激に対して強い注目が向けられるため、経験則が知識として定着しにくいという傾向がある。

 このように、自閉症スペクトラムである人は、五官(眼耳鼻舌身)から入ってくる情報を処理するやり方がそうでない人とは異なっているため、当然その言動も独特のものとなる。

 私は息子のおかげで、このような自閉症スペクトラムをはじめとする発達障害について関心を持つことができ、また理解を深めていきたいという思いを持つことができたが、もし息子がそうでなかったならば、おそらく今ほど発達障害について関心を抱くことはなかったであろうし、無関心ですらあったかもしれない。

 法華経の化城喩品の中で大通智勝仏がこの上ない正しく完全な覚りを覚られる時に、十方の五百万億の諸仏世界に大いなる光明が遍満する。その時、太陽や月の光もなく周りを見ることもできない暗黒の世界にもこの光明が届き、その世界の衆生がこれまで気づかなかったお互いの存在に初めて気づくことができたという場面がある。

 現在私たちの住む社会は己の利益のみを追求することに勤しむあまり、特に様々なマイノリティである他者の存在に無関心な、まさに暗黒の世界と言える。法華経の智慧の光明に照らして世界を眺めてみれば、きっと現在と異なる景色が広がって見えるに違いない。