7月の法話 眉は近けれども見えず/倉橋観隆

 三月末の夕方、ご信者のKさん宅へお経に伺った時のことです。

 「お上人さん、屋上から若田さんが見えますよ」とご主人に突然言われました。「え?」「もうすぐスペースシャトルが見えるんですよ」どういうことかよく分からず、内心「望遠鏡でもあるのかな」と思いながらKさん夫妻の後に付いて屋上へ上がりました。望遠鏡は見当たりません。しばらく空を見上げているとKさん、突然大声で「アレ!アレ!、アレですよ、アレ!」指さされた方角を見ると、白いケシ粒ぐらいの点が西の方から北東の空へ「すー」っと飛行して行くのが目に入りました。「おー」と私も思わず歓声を上げました。打ち上げ直後のスペースシャトルが太陽の光を受けて白く輝いていたのです。Kさんは事前にインターネットで調べてこの日を待ちわびていたとのことでした。

 四百キロもの上空を飛ぶスペースシャトルがこの肉眼で見られるとは。まさかの出来事に何とも言えない不思議さと感動を覚えた瞬間でした。

 と、その時、その朝お勤めで拝読したお祖師様の「眉は近けれども見えず。自らの過ちを知らず」とのお言葉を思い出しました。あんなに遠くの物でもこの目で見ることが出来るのに一番近いはずの自分の眉毛を見ることが出来ない、この矛盾。まさにこのお言葉の一端を目の当たりにした気がしました。

 私達は往々にして他人の落ち度は目に付きます。しかし、自分の過ちには気付きにくいものです。ここに人生に迷いが生ずる一因がある気がします。

 ではどうすれば我が身を省みることができるのか。それには自身をありのままに映し出す鏡の前に立つしかありません。その鏡とは何なのでしょう。それはお題目という明鏡なのです。お題目を信じ唱える中にこそこの心が養われてくるのではないでしょうか。

 今もこの空の上を飛んでいる人工衛星はそんなことを気付かせてくれました。