9月の法話 もったいない/植田観肇

 物持ちが良いね、と言われる。確かに、サイズがあう曾祖父の道服を繕って着ていることも多い。また、納屋の奥から出てきた古いカンナやキッチンの奥深くから発掘した包丁をピカピカになるまで研ぎ直して使ってみたり、錆びだらけの鉄のフライパンを丸一日かけてヤスリで磨いたりと、半分趣味で古い道具を復活させるのを楽しんでいる。

 

 先日なども、祖父のタンスの奥深くから茶色くなった白い絹の本衣が出てきたのだが、あまりにもしわくちゃな上にシミだらけだったので、さすがに自分で洗濯するのは諦めて法衣店にクリーニングを依頼した。だが、あまりのひどさに法衣店でもさじを投げ、結局受け取ってもらえず出戻ってきてしまった。

 そこで諦めれば良かったのだが、ついつい趣味の心が首をもたげてきて、時間を見つけて何日もかけて染み抜き方法を調べ、ダメで元々と生地を傷めないギリギリの様々な方法を試した結果、なんとかまだ見るに堪えられる程度の色に落ち着いてきた。

 しかし、それはまだゴールではなく、そこから地道なアイロン当て作業が始まる。既に元のプリーツはほとんど消え、関係ない折り目ばかり。勘だけを頼りに何度も何度もアイロンを当て直し、ついに白い本衣が現れた。

 改めて、昔の物はすごいなと感じる。注意しているとはいえ、これだけ生地を酷使してまだきちんと着られるというのは、現代の使い捨てのファストファッションではたぶんこうはいかない。きっと、昔の製品は使い捨てではなく、長く使い続けることを前提に作られているのだろう。

 日本では万物に神が宿ると考えるが、道具に対する「もったいない」という思いも、その神様に対する敬意の現れかもしれない。

 法華経では全ての人を敬う事の功徳が説かれているが、日本に生きるならば、人や生き物だけでなく万物に感謝しながら、長いおつきあいをしてゆければと思う。