10月の法話 ぼけたかな/詠裡庵


 この頃はお風呂も自動でお湯を沸かして入れることができる。薪で焚いていた頃とは隔世の感がある。

 先日、お風呂にお湯を入れようと、スイッチを押した。お湯を沸かすボイラーの音が聞こえてきた。ところがしばらくすると、異常音がした。慌てて見に行くと、お風呂の栓が開いたままではないかこれではお湯がたまるはずがない。昔なら空焚きになるところだ。

 また、人に道を聞かれることがある。その場所がわかっていて説明するが中々解ってもらえない。自分の頭の中にその場所を描き説明する。たとえば、真如寺から妙見山までを説明するのに、適当な言葉が出てこない。坂を下っていって丁字になっているところの信号機を左に曲がって……。と言えばいいところだが、実際には頭の中に信号機が浮かんで来るのに、なぜがうまく言葉につながらないのである。なぜ映像が先に出来てくるのか。知っている場所や物の名前なども、頭には形が先に浮かんで来るのに、言葉としては出てこないのだ。

 家の中ばかりの暮らしなので言葉を忘れていったのだろうかと気にかかる。それよりも何よりも、すごく齢をとってしまったようで落ち着かない。かつてお年寄りが、「あれがほれ、ねえ」などと指示代名詞で話し、ご自身もじれったがっているのを見ていたが、あれと同じことを今、自分もやっているのかと思うと、複雑な心境に陥る。

 テレビもよく見聞きし、新聞も毎日必ず目を通している。日々のあり方は、何年も変わることなく続けている。それなのに……、と思うと、なぜ?という思いに駆られることもある。

 老化? いや諦めて時の流れに負けてしまうのではなく、変化と捉えるべきだろう。先日も、百才を過ぎた人が現役の写真家として活躍しており、写真集も出されると報道され、また百五才で陸上競技に出たという人もニュースになった。

 それを思えば私などまだまだ。さあ、より良い変化ができるよう頑張らねば!