8月の法話 供養の季節/桑木 信弘
新型コロナウイルス感染防止の自粛期間で例年とは違う雰囲気で過ごす中、実父の一周忌を迎えた。
親もとを離れ仏門に入った頃、師僧に「お前は父さんや母さんに悪いと思っているか?」と、よく言われた。
その頃、陰ながら心配をし取り越し苦労ばかりする両親を若い私は煩わしくも思っていた。「俺の何が悪いんだ」と内心不服に感じていた。
いつの間にか気付かないうちに心に染みついていた父や母への頑なな想い。まるで胸の内に黒く大きな重苦しい岩を抱えているような心境であった。
檀家さんの自宅へ月回向に行き、お経の後お茶を頂きながら両親と同じ世代の愚痴を聴き、世間話をするようになると、離れて暮らす子供達への想いを語る檀家さんの姿に自分の親を想い重ね見た。
すると「ああ あの時こんな風に私を思っていてくれたのでは」と色んな思い出とともに少しずつ私の頑なな心が、時間をかけ融けていくように、抱えてた胸の重さもゆっくりとが軽くなっていった。
今では私も二人の子を持つ親となった。
子供達と関わる日常で感じる優しさ、心配、いら立ち等、それぞれの場面で今は亡き父の生前の姿を想い、その心を追体験しているようで温かな気持になる時がある。
父は私の中に、家族や人を黙々と思いやる心を遺してくれたのだと思う。
親の心子知らず、人の心に仏見えずというが、法華経はお釈迦様が一切衆生を愛子とし、末法を救済する為に遺された教え。
お釈迦様は入滅されてもその生命は私達とともにあるが、心が柔和で素直でなければ仏は見えないのだという。
日蓮聖人は「孝と申すは高なり。天高けれど孝より高からず」と全てに生かされる感謝と恩を大切にと教えておられる。
苦労や不安の多い社会生活で渇きがちな心に感謝の慈雨を降らすなら柔和な心を取り戻せるだろう。
お盆、秋彼岸と供養の季節を、北天から私達を見守る妙見菩薩に思いを馳せ、柔和さと思いやりを育み深める修行としたい。