1月の法話 本当の我が子と頭の中の子/毛利観恭
知人宅へ行った時の話ですが、悩みがあるようなので聞いてみたら、小学生の子供のことでした。
何事もやる気が見えず、習い事もどれも続かない。後片付けや掃除も言った時だけで、注意されたらすぐ言い訳をするそうです。
その子のことをよく知っていますが、とても優しい子です。私は客観的に見ることが出来るのですが、親は我が子をそうは見ることが出
来ないようです。
知人の話は、聞いているうちにどんどん思いが強く出てきたので、角度を変えて話すことにしました。
私たちは誰も、相手のことを正しく見ることは出来ていないということです。私たちが人を見る時は、自分の経験を基準にして、この人は
こういう人だと判断し対応しています。自分の頭の中で勝手に相手を創っているのです。
本当の子は一人しか存在しないのに、知人が見る子や、奥さんが見る子、私が見る知人の子と、その子を見知る人の数だけ創られて
いるのです。
親が我が子を見て怒りたくなったときは、実は本当の我が子を頭の中の子と比べているのだと認識し、怒らずただ観察して見れば、今
まで気付かなかった子供の良さが判るのでは、と話しますと、知人は理解し少し楽になったようでした。
本当の姿を見ず、頭の中に別の姿を創り、その違いに苦しんでいるのが私たちです。自分自身をよく知る事ができたら苦しみの大部分
は解決すると思います。
日蓮聖人は、父母を愚かにする人の心の内には地獄があると説かれ、また仏も私たちの心の内におられるのだと示されています。心
のあり方一つで地獄の経験をしたり、逆に仏すら感じることができるのです。
問題は他にあるのではなく、私たち自身の内に在るのだということです。
心が清浄になるように、常に自身を見つめ、また他人と比較などせず穏やかに生活して、お題目を唱える日々を送れば、必ずや幸せな
毎日を感じることができるのではないでしょうか。