9月の法話 祈りの作法/植田観肇
先月米国ヒューストンに信行会のお手伝いに行ってきた。ちなみに私は英語はあまり話せないが最近は携帯電話に英和辞典など入れられるので、海外で携帯電話は手放せない。
一週間の信行会が終わり少し英語になれてきた頃。知り合いのお上人がアメリカで教誨師をしているご縁で、テキサス州の刑務所に連れて行ってもらった。教誨師というのは刑務所で受刑者に対して徳育活動を行う人の事で、日本でも教誨師をされているお坊さんは多い
今回は受刑者と共に唱題行をするとの事。荷物の検査があり、当然携帯電話などは持ち込み厳禁なので、辞書も何も持たず数珠だけを持ち中へと入った。
事前に登録していた名前の綴りが間違っているというトラブルもあり、無事中に入ることはできたが緊張感はピークに達していた。初めて入る刑務所の中、さらに言葉の壁もある外国での事、何も起こるはずはないと頭では分かっていても私の数珠を握る手には自ずと力が入っていった。
中に入っても周りを見る余裕もないまま、唱題行が始まった。驚いたことに、それまでの緊張感は一気に吹き飛び何も考えず一心にお題目をお唱えできた。気持ちに余裕ができ周りを見ると、受刑者の方々も一生懸命に「Namu Myoho Renge kyo」とお題目を唱えておられた。唱題行を終えた時には受刑者の方とも打ち解け、同じ信仰を共にする仲間になれたように感じた。
日蓮聖人は、ご信者と僧侶の両方に同じ信心がないとせっかくの祈りも水の上に火を焚くように意味が無いとおっしゃっている。逆に心を一つに同じ信心をもつことができれば、仏さまのお力を頂け、言葉や立場を越えてその功徳を感じる事ができるのではないか。
唱題行の余韻残る心にそんな思いが浮かんだ。
ところがこの後、衝撃の一言が。今から私に法話をしなさいというのだ。辞書もなく、何の準備もないなか、再び私の数珠を握る手には力が入っていった……