1月の法話 晴れ着/日慧

 明けましておめでとうございます。
先行きの不安が拭い去れない昨今、まずは何もかも吹っ飛ばすパワーを初詣で戴き、本年がよい年となりますようお祈り申し上げます。

 ところで、初詣に晴れ着でいる方をあまり見かけなくなりました。
山の上まで来るには、窮屈な服装よりラフな格好の方がいいということもあるのでしょう。

 しかし参詣はともかく、結婚式などの改まった席でも、昔ほど正装にこだわらなくなってきました。これは、気楽になった反面、日常とハレの場との境界が不明瞭となり、気持ちの切替が出来なくなったということでもあります。

 私が小学生の頃は全校揃って新年を祝うため、元日は学校へ行かなくてはなりませんでした。
初春とはいえ冬真っ只中の寒い中を、「何で休みの日なのに、小学校へ行かなくてはいけないんだ」などとぼやいたものです。広くて寒い体育館に整列し、校長先生の年頭所感と訓辞を聞きます。
小学生にとって楽しいはずはありません。でもこれが毎年恒例の行事でした。

 新年を祝うという習慣は世界各地にあります。
一年を無事に過ごすことができたという感謝と、新たなる出発を迎えての期待と喜びを表すものでしょう。

 お正月を迎えた心の内の思いを形で表したのが、神仏への様々なお供え物や飾りであり、晴れ着姿です。
そしてまた、その形が逆に心の内の思いをより一層高めることとなるのです。
 形と心が密接なつながりを持っていることは、誰もが経験しています。同じ食べ物でも、器によって味まで変わったように感じたり、ただ泊まるための部屋でも高級旅館の部屋のほうが落ち着いて休むことが出来るなど、形は人の心までも変えてしまいます。

 たとえ晴れ着は着ていなくても、一年の計をしっかり心に持ち、ご先祖にそして仏天に手を合わせて形とすることは、まことに意義深く、その功徳は絶大なるものであり、必ずやご守護を得られることでしょう