10月の法話 いまを生きる/相川 大輔


 先日、長崎へ伯母の病気のお見舞いに行ってきました。幸いなことに伯母の病状はそれほど重いものではなく一安心です。

 約3年ぶりとなる長崎でしたが、長崎は母を看取った場所でもあります。4年前の夏、母の病気を知らされ、すぐに家族で長崎へ帰りました。3か月の間私たちは母の病魔と闘いましたが、ついに母は力尽きてしまいました。

 実はその時、私はまだ僧侶ではありませんでした。義父が僧侶でしたので、その縁でいつかは自分も仏道を歩んでみたいと漠然と考えていただけでした。しかし、母の骨を拾い上げる瞬間、次のような念が湧き起こってきました。

「父はすでになく、母もいってしまった。次は自分の番だ!」
「”いつかは”などといっている場合ではない。”いま”仏道を歩みはじめなければいけない。今日にも明日にも自分は死んでしまうかもしれないのだ!」
実にそれは心身に迫り、打ち震えさせるものでした。その数か月後、私は身延山へ登り、仏道修行の第一歩を歩みはじめていました。

 「先ず臨終の事を習(なろ)うて後に他事を習うべし」という日蓮聖人のお言葉があります。死は常に私たちの隣にあり、人生は無常です。それをまず自覚して自身の人生を生きなさいとおっしゃっています。

 いま思い返してみますとあの時の衝撃的な体験は、
「あなたの人生は無常でありいつ果てるともかぎらない。あなたにとって生きたい道、正しいと思う道を”いますぐに”歩みはじめなさい」という母の最期の言葉だったのだと思います。

 まもなく母の命日。私たちは日々の忙しさの中で、自身の人生が、さらには世界の一切が無常であることを忘れてしまっています。”いずれは””そのうち””あとで”などという言葉は、空虚なもの。母の”いまを生きなさい”という言葉が結んだ仏縁。母のこの恩に報いる生き方をしているか、反省しなくてはなりません。