11月の法話 修行と修業/日慧

 最近多くなってきたなと感じることの一つに、坊さんでもないのに修行したいという人が訪ねてくることである。


 能勢妙見山では一日体験修行の日を年二回設けているが、参加者の思いは人によって違うようだ。

心に活を入れたいと考えている人、日常の垢のようなものを流し落としたいという人もいれば、疲れた心を癒やしたいと参加する人もいる。


 しかし中には、滝に打たれたり読経三昧したりと、身体をむち打つような厳しさを求める人もいる。

修行というと、そういう厳しいものと思い込んでいる人もいるのかもしれない。では修行とは一体何だろう。

 「ぎょう」というとき、「業」の字を当てる人が多い。しかし、仏道修行をいうときは「行」を使う。

 業は「わざ」とも読むように、身につけた心ないし技術をいう。

つまりこれだけのことが出来るという、いわば過去の習練の結果であり、ここまで出来るようになったという到達点とでもいうものを表す。

従って厳しい修業をして、これだけのことが出来る、何を身につけたかが語られる。
 

 これに対して、行は「いく」と読めば目的地へ向かう途次を指し、また「おこなう」と読めば実行していることを示す。つまり行は目的への課程にあることをいい、仏道を行ずるといえば、仏になるために教えを実践していることを指す。

何ができるか、どれだけ厳しい行をしたかではなく、仏の教えを如何に真剣に実践しているかが問われる。

つまり修行とは、日々の生活の中に仏の教えを実践していくことをいうのである。
 

 では修行は厳しいことはしなくてもいいのかというと、そうではない。

楽したいという怠け心を封じて、いつも仏と共に在るという心を持つのは、並大抵のことではない。

そんな努力を重ねていく力(志念力)を養うには、非日常的な行動が必要だ。唱題お百度廻りに仏の心を得、写経に仏を見、読経に仏の声を聞き、水に打たれるとき仏の力を頂くことも大切だ。