11月の法話 増上慢/倉橋観隆


 お釈迦様が七十二才を迎えられたある日のこと。

 「四十二年間の布教の集大成として我が本懐をそろそろ弟子達に明かしても良い時機が来たようだ」とお考えになりました。そしておもむろに語り始めようとされた時です。その場に居た弟子の内、五千人がこう言いました。「お釈迦様の教えは長年にわたって聞いてきた。もう十分理解できた。これ以上聞く必要もない」と、立ち上がって退席しようとしました。

 さあ、真っ青になったのが弟子の最長老であり、自らお釈迦様にお説法を三度まで頼み込んだ舎利弗尊者でした。面目は丸つぶれ。「お前さんたち、一体なんてことをするんだ、待ち給え」と制止しようとした時お釈迦様はこう申されました。「止めるでない。あの者たちは私の教えの真髄を未だ理解していないのに既に理解したと思い、悟っていないのに自分では悟ったと思い込んでおる。それは自らの罪によってそうさせられているのだ。聞く耳を持たない者に無理矢理聞かせれば却って罪を重くさせるだけだ。黙って去らせ
よ」お釈迦様は決して彼らを見捨てられたのではありません。本人たちが気付く時を待たれたのです。

 さらにこの教えにはもう一つ重要な意味が込められていました。それはその場に残った舎利弗尊者をはじめとした長老といわれる弟子の中にも「私は何十年とお釈迦様のお側に仕えて教えを聞いている。だからお釈迦様の事は何でも知っている」というおごりの心が潜んでいることに、自ら気付かせようとしたのです。

 お釈迦様は、申されました。「このおごりの心を増上慢と呼ぶのだ。教えを学ぶ者にとって最も戒めなければならぬ掟である」と。これは法華経「方便品」に説かれるお話です。

 私達にとって退治しようとしてもつい芽生えるこの増上慢。では、どう付き合えばよいのか。お釈迦様はこう結ばれます。「聞法歓喜」即ち教えに出会えた事を素直に喜び、信じる心を養う努力を続けなさいと。