11月の法話 手放したものの価値/植田観肇

 少し前の話になるが父からえらくくたびれた古い革製の巾着袋をもらった。部屋を整理したらでてきたらしい。私の曾祖父から父がもらったものだそうだ。

 ホコリをかぶったそれは見るからにボロボロで、長時間放置していたからか表面はカサカサになり触るとすぐに穴が空きそうに見えた。まともに使えるかどうかも怪しいしろものだったが、今となっては曾祖父の形見の品なのでとりあえずもらう事にした。

 見た目は酷かったが、汚れを丁寧に落とし、クリームを塗るとツヤが少しずつ戻ってきて、新品とはいかないまでもだいぶ見られるようになってきた。またよく見てみると材質などもかなりこだわったものであることが分かってきた。

 曾祖父はものを大切に使う人だったが、自分の気に入ったものでも気軽に人にあげる気さくな人でもあった。だが、あげたものを大事にしているか気になるらしく度々確認されるそうでもらった方は気軽に使いづらく、父も結局タンスの肥やしになったようだ。

 人にあげたりして何かを失うことでその価値を再認識するということはよくあるし、自分が大切にしていた物ならなおさらである。もらった方はたまらないが気持ちはよく分かる。

 お釈迦様もそんな人間の性に気付いておられ、私たちを救うためにその心理を利用したのだと説かれている。法華経の壽量品には、毒で本心を失い解毒剤を飲もうとしない子供に父が飲ますため、自分が死んだことにしてショックで子供を正気に戻し飲ませたというたとえ話がある。

 父である仏様は子供である私たちに法華経という薬を用意して下さったのに私たちがそれを飲もうとしないため、仏様は永遠の命があるにもかかわらず死を装ったのである。

 仏様はいつも私たちを見守り手をさしのべて下さっているが、それに甘んじることなく、いつもそのありがたさを確認し感謝し、しっかりとその手につかまっていなければならない。